「問題作」 を読んだときには,すぐにみずから書評を書いて Amazon.co.jp と BK1 とに投稿している私だが,この本に関してはそうたやすく書評を書けなかった. ここには,Amazon.co.jp から,よく内容を要約している モチヅキ (名古屋市) の書評を引用しておきたい.
国家権力より社会のほうが危険に感じられる時代
1958 年生まれの社会学者と 1971 年生まれの哲学者が、流行の現場主義に理論を再導入し、問題を提起し (解決ではなく)、現場から理論を叩き直すことを意図して行なった、2002 年後半の 3 回にわたる対談の記録。 大きな物語の共有に基礎を置く従来の 「規律訓練型権力」 に対して、近年では人の行動を物理的・無意識的に制限する 「環境管理型権力」 が台頭してきている。 後者は価値観の多様化と矛盾しない権力の在り方であり、したがって対抗することが難しい。 人間は固有性 (自分でしかありえない私) と偶有性 (他者であったかもしれない私) の二つを持って、初めて人間でいられる。 偶有性のために、人間は疎遠なものでも引き受け得る想像力 (共感能力) をもっているが、環境管理型権力はその弱体化につけこむ。 現在の権力は、偶有性の弱体化 (動物化) により連帯の可能性も弱体化し (島宇宙化)、公共圏のヴァーチャル・リアリティ化 (対話の無力化) とセキュリティの強化 (剥き出しの生の管理=生物的身体の編成) とが、乖離したまま同時に進行している状況において働く。 これに対抗しようとすると、「犯罪をする自由」 のような、収まりの悪い表現になってしまうため、著者達は新たな概念の発明によって、この偶有性の重要性を表現し、政治的身体と生物的身体をもう一度結び付けようとしている。 議論がやや抽象的だが、現在の自由に関する問題の所在を鋭く突いている (国家権力よりも社会の方が危険に感じられる現代の状況下での、イデオロギーを無効化したセキュリティの暴走)。 ただ、凡庸な実践を積み重ねていくというなら、セキュリティ情報の 「管理者」 の問題 (警察の不祥事の監視の在り方や、サイバーテロの危険性) は問題にすべきだろう。 なお、大澤氏が論理の流れを重視するあまり、二面性の弁証法的総合を強調しがちなのに対し、東氏はより実践的であり、二面性の並存を強調する傾向がある。
本書の弱点は,セキュリティを中心とする情報技術についての分析がほとんどおこなわれていないことにあるとおもわれる. セキュリティの問題以前に,現在のデジタル・コンピュータ技術の弱点であるアナログな空間の欠如がきいているようにおもえる. 本書においては 「偶有性」 とか 「誤配可能性」 とかいうことばがつかわれているが,これらにおいては 0 か 1 かというデジタルな空間が仮定されているとかんがえられる. アナログな空間においては 0/1 ではない近傍性があり,そこに問題をとくカギがあるようにおもえる. もしかしたら Second Life (セカンドライフ) のようなしかけがヒントになるのではないだろうか. 本書においては問題提起も十分なするどさを獲得できていないとかんがえられるが,そのひとつの原因がこうした技術的分析の欠如にあるとかんがえられる. 2005 年に Glocom でおこなわれた ised@glocom はそれをおぎなう意図があったのだろうが,はたして十分な結果がえられたのだろうか.