WBS をのぞいては民放のテレビをほとんどみない私が,たまたま日本テレビの 「天才ダビンチ 伝説の巨大壁画発見 !」 なる番組を途中からみました. ゆくえ不明になっていた 「アンギアリの戦い」 (Battaglia di Anghiari) という作品が,実はベッキオ宮にあるヴァザーリ (Giorgio Vasari) の絵の裏にかくされていることをマウリツィオ・セラセチーニ (Maurizio Seracini) という研究者が発見した,そのヒントになったのは彼がヴァザーリの絵にあるのを発見した cerca trova (さがせばみつかる) というとばだったということです. この作品は戦争の残虐さをえがいた絵だということです. ここからさきは私の想像ですが,ダビンチ (Leonardo da Vinci) ほどの大芸術家の絵ではあっても,このような絵はその場にふさわしくないとかんがえられて,完成されるまえに封印されてしまったということではないでしょうか.
ダビンチはベッキオ宮の壁画をえがくことを 1504 年に委嘱されました. 彼はアンギアリの戦い (1505) の絵をえがきましたが,フィレンツェのひとびとはそこに戦争の残虐さをえがくことをのぞんでいたわけではなかったはずです. ベッキオ宮があるフィレンツェが勝利したたたかいであり,常識的にかんがえればその勝利をたたえる絵がえがかれるはずです. ところが,ダビンチがえがいたものは戦争の悲惨さであり,フィレンツェ軍の残虐さでした. ダビンチがどういう意図でこのような残虐な絵をえがいたのか,その理由はわかりません. しかし,いくらダビンチの偉大さが当時から知れわたっていたとしても,それはフィレンツェのひとびとにとって許せるものではなかったのではないでしょうか?
この番組に出演した 荒俣 宏 によれば,「新しい絵の具を定着させるため、たいまつの熱で乾燥させるという実験を試みて失敗。絵の具が溶け出して回復不能なダメージを受けたため、ダ・ヴィンチは続行を断念、フィレンツェを去ったといわれている。」 ということです (「ダ・ヴィンチを極める」). しかし,これはダビンチをきずつけないためのおもての理由であり,真の理由はダビンチがゆるされない絵をかいたことにあるのではないかと想像されます. (そうでなければ,なぜダビンチがフィレンツェを去る必要があったのか,わかりません. これ以降,ダビンチはフランス王の庇護のもとにある.)
こんな絵をいまだかつてみたことがなかったフィレンツェのひとびとにとってはもちろんのこと,現代でもこのような悲惨な絵をえがくことがゆるされる場所はかぎられています. (写真は ルーベンスによるこの絵の一部の模写であり,「アンギアリの戦い」 から借用しました. ルーベンス (1577-1640) はこの時代にはまだうまれていないので,ヴァザーリの絵にかくされたダビンチの絵をみていないはずですが,ロレンツォ・ザッキアが模写した絵をさらに模写したということです.)
関連サイト: 「アンギアリの戦い」, 「ダ・ヴィンチ 勝者が苦しむ絵」.