金融を仕事としているひとはちがうかもしれないが,一般投資家が株や FX などの金融商品を売買するとき,おおくのひとはゲーム感覚をもっているようにおもえる. すくなくとも私自身はそうである. ところが,金融工学ではこのゲーム性をブラウン運動によってあつかっている. つまり,厳正に抽選される宝くじとのちがいが,すてられてしまっている. 私はそこに違和感を感じてしまう.
このちがいは,宝くじと競馬などとのちがいでもある. 競馬でどの馬券を買うかをきめるとき,おおくのひとは馬や騎乗者についての情報をみてきめるだろう. だれがどういう情報をえるか,それにもとづいてどういう判断をくだすか,それらがすべてランダムであるとすれば,確率論があてはめられる. しかし,すくなくとも自分がプレヤーであるときに,自分の行動 (つまりどの馬券を買うか) を,すべてがランダムにきまると仮定した理論にもとづいてきめようとはおもわない. それは,ランダムではないと信じる自分の意志にもとづいてきめる. そこにゲーム性がうまれる. それがなければ,だれも馬券など買わないだろう.
投資や投機に関しても同様である. 私自身がブレヤーであるときは,自分の意志はランダムではないと信じて,それにもとづいて行動する. 株などを買う動機はさまざまだろうが,そのなかのひとつはゲーム性だろう. ジェット・コースターにのるようなたのしみがあればこそ,短期の株取引や FX に手をだすのだろう. しかし,ランダムでなければ金融工学の方法をつかうことはできなくなる.
金融を理論的にあつかうのに,かならず確率論的な方法であつかわなければならないということはないはずである. ゲーム理論的なかんがえかたがはいらなければ,市場をただしく把握できないのではないだろうか? 単純なゲーム理論であつかうことはできないだろうが,ゲーム理論的な要素をとりいれた理論をつくることもできるのではないだろうか.