相原 博之 の 「キャラ化するニッポン」 では 「現実の 「私」 とは似て非なる 「キャラとしての私」」 が他人によってあたえられるという. 相原はまた,日本のキャラには表情がない,それによってひとびとがキャラに自分の感情をうつすことができるといっている. このように 「キャラ」 が外部からあたえられることが,もしかすると 「だれでもいいから殺したい」 という,最近よくきかれることばとも関係しているのではないだろうか?
「だれでもいいから殺したい」 というとき,殺人者はだれかを 「殺されキャラ」 にしたてているのではないだろうか. 「キャラ」 が外部からあたえられるということは,だれでも 「殺されキャラ」 になりうるということだ.
しかし,通常はなにかきっかけがあって 「キャラ」 になるのだ. ところが,「殺されキャラ」 のばあいはただ犯人の目についたというだけで 「殺されキャラ」 にされてしまうことになる. やはり,おそるべきことだ.
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