教養主義は死んだというひともいるが,実用一辺倒だった近年の経済・社会のいきつく果てが金融資本主義の崩壊につながったのだとしたら,もういちど教養主義や 「役にたたないもの」 すなわちトリビアをみなおしてもよいのではないかとおもえる.
ずっと以前から 「雑学」 の本というのはよくある. 「雑学」 の 「雑学」 たるゆえんは体系だっていないことだろう. 体系だっていないから 「学」 としての価値はひくい. しかし,それでも 「学」 の入口としての機能ははたしうるのではないだろうか.
「教養」 というのはもっと体系だったものであって,「雑学」 ではないと私はおもってきた. しかし,体系だっているとはいっても,だからすぐに役にたつということにはならない. その点では両者に共通点があるといえるだろう.
近年は 「役にたつ」 学問というのが重視されてきた. 実用に傾斜する現代においては教養主義は旗色のわるいものになっていた. 大前研一は教養主義は死んだということを言っている (「「知の衰退」 からいかに脱出するか?). しかし,ある意味でその結果が金融資本主義の崩壊につながったようにもおもえる. 金融資本主義の急先鋒だった中谷巌は,いま自分のあやまりをみとめ.教養主義の復活をめざしているようにみえる (「資本主義はなぜ自壊したのか ― 「日本」 再生への提言」).
「役にたたない」 ことを強調する 「トリビア」 は 「雑学」 の急先鋒だといえる (実は結構役にたちそうにもおもえる). そして,人気がたかい. これが実は 「教養」 の入口にあるようにもおもえる. このあたりから教養主義の復活をめざすことができないものだろうか.
2008-5-26 追記:
村上 陽一郎 の 「あらためて教養とは」 によると,ヨーロッパで大学がうまれた 12 世紀ごろ,大学人がだれでもまなぶべき教養として文法,論理,修辞学があり,これらをあわせて 「トリヴィウム」 (3 科) といったという.
これと 「トリヴィア」 (3 つの道) とはちがうことばだが,どちらも 3 を意味している.
「トリビアの泉」 のトリビアはこれらのうちのどちらかが語源であるらしい.
ここでも 「教養」 とのつながりがありそうだ.