ちかくにありながら,ずっといかないままになっていた新国立劇場のオペラ劇場にいって,モーツァルトのフィガロの結婚をきいた. 近年はやりの舞台装置のすくない演出だったが,それを比較的うまくいかし,かつ日本人をふくむ主役級の歌手もそれぞれうまくこなして,満足できる演奏だった. 劇場は,座席がいささかふるくて,せまくるしいが,全体としては音もよく一体感のあるつくりになっている.
最近いそがしいので書くのがだいぶおくれたが,10 月 20 日 (日曜日) のできごとだ.
新国立劇場ができて以来,ずっとそこでオペラをききたいとおもっていた. しかし,オペラは通常のコンサートとくらべても時間がながいので,なかなかふみきれなかった. 公演回数も比較的かぎられ,ききたいものをきけるときにやっていないというのも,きかないままになっていた理由のひとつだ.
しかし,10 月 26 日のニューヨーク・フィルのチケットをとったのがきっかけで,国内でもききたいとおもっていたオペラをきこうとおもいたった. 新国立劇場のサイトをみると,10 月 20 日にフィガロの結婚をやっているのがわかった. 座席をしらべてみると,まだいくつかあいている. 1 万円前後で 3 階のわるくなさそうな席がまだあったので,買うことにした. 来年春にはヴォツェックをやるというので,それもきくようにしたいとおもっている.
予想どおり,かなりいそがしい時期になってしまったが,なんとか時間をあけた. 新国立劇場は家からあるいてもいけるくらいの距離だが,雨がふっていることもあり,行きは自家用車で妻におくってもらい,かえりはバスをつかった. 劇場の側面にタクシーのりばがあるが,そのちかくからなかにはいった.
さきに中劇場のいりぐちがあるが,ここには一度はいったことがある. 人手でビラをくばったりはしていないが,置いてあるもののなかから,ヴォツェックをはじめとして何枚かをとった. 「ぴあクラシック」 という冊子ももらった. 「音楽の友」などを買わない身にはよい情報源だとおもえるが,紙でもらうためにはここなどにくる必要があるのだろう.
オペラ劇場内にはいると,ヴォツェックなど今期の公演のいくつかをビデオで広告している. まだ時間があったので,すこしほかの場所もみながら自分の席にむかった. 大劇場とはいうものの,メトロポリタン歌劇場などとくらべると,こぶりだ. どの席もそれほど舞台からとおいという感じはしない. メトロポリタンだと後方の席は舞台との一体感が感じられなかったが,ここには一体感があるようにおもう. 音は自席でしかきいていないが,欠点がすくなくなるように設計されているようにおもわれた. つまり,どこできいてもよいようにおもえた. 座席は標準的なたかさなのだろうが,すこしひくすぎる感じがする. まえも比較的せまいので,ひざが浮いて,すこしつかれる. イスはもうだいぶつかれていて,私がすわった席はうごくときしむのはありがたくない.
舞台装置がとてもすくない演出だった. なかにはいって舞台をみたとき,すこし異様な感じがした. そこには,4 枚の板のようなもので,なにもないへやがつくられていた. ここに序曲のあいだに白い布かなにかをはりつけた段ボール箱のようにみえる箱が,へやのうしろの板をずらして,つぎつぎのおしこまれた. あとでこの箱のなかにケルビーノがかくれることになる. 舞台には 10 数個の箱と,すぐあとではこびこまれたおおきな衣装ダンス以外にはなにもない. 幕間にそれらがいれかえられるのかとおもったが,配置が一部かえられただけだ. こういうやりかたは,ここ 20 年くらい,海外のオペラ公演でも主流になっているやりかただとおもわれる. 決してコスト削減のためだけにこういう演出になっているわけではないだろう.
オーケストラは東京フィルだ. 東京フィルもちかごろきいたことがなくて,まえにきいたときからメンバーはほとんどいれかわっているはずだが,大事なところで金管がとちるところなどは,まえとかわっていない.
主役級ではスザンナが 九嶋 香奈枝 という日本人だが,あとは外国人だ. フィガロは予定の歌手が病気のためマルコ・ヴィンコという,すでに何回もフィガロをうたっているという歌手が代役になっている. スザンナもふくめて,日本に唯一のオペラ専用劇場にふさわしい配役だとおもえた.
「フィガロの結婚」 の DVD ももっているが,そこではスザンナとケルビーノがおなじベッドにはいり,ケルビーノがそこにかくれているところが発見されるという,いささか過激とおもえるん出だった. それにくらべると,ケルビーノが箱のなかから発見されるこの演出はおとなしい. 箱は,のったり,かくれたり,いろいろな目的でつかわれるが,やや変化にとぼしいようにもおもう. 衣装ダンスもそのなか,その後方にひとがかくれる目的でつかわれる.
2 重唱,3 重唱もときどき登場するが,音楽的には一体感をもたせつつ,歌の内容は各者が自分の立場や思惑を対比的にうたうようになっている. 登場人物が会話するなかでもそれぞれがバラバラなおもいをうたう. また,かくれてひとの話をぬすみぎきしながら多重唱する場面もおおくて,そのために,かくれるためのいろいろなしかけがいかされる.
喜劇であることもあり,音楽はほとんど長調で書かれているが,モーツァルトの音楽はほとんど短調にならなずに,短調からの借用音だけで,能面のようにかなしみを表現している. 伯爵夫人 (マンディ・フレドリヒ) が身の悲劇をうたうアリアがあるが,そういうモーツァルトらしい音楽をうまくうたって,さかんな拍手をあびていた.
満足感をもって,ききおえることができた.