イベント・プロデューサーである 平野 暁臣 は 「コトづくりの眼」 (日本実務出版, 2005) という本 (132 ページ) のなかでつぎのように書いています.
「子どものころ,都会の暮らしのなかにもまだ “ハレ” はしっかりと息づいていた. たとえば正月. いまとは違って,正月にはいつもと違う特別な時間が流れていた. だからぼくは正月が大好きだったし,待ち遠しくて仕方がなかった.」
「祖母の正月は参加者自身がつくり手だった 自らの肉体のなかに刻まれていく体験だったと言ってもいい. つまり大仰にいえば,昔の祭りと同じ構造をもっていた.」
私にとっては正月が平野ほど特別な意味をもってはいなかったとおもいます. しかし,それが “ハレ” のものつまり非日常のものであり,参加するものだったという点はそのとおりだったとおもいます.
ちょっと話がとびますが,私はリアルタイムで双方向性のある参加型のメディアをつくりたいとかんがえてきました. そこからきた提案のひとつが遠隔会話のためのメディア voiscape (ヴォイスケープ) でしたが,これはいまのところ成功していません. このようなメディアを成功させるためのヒントのひとつがこの正月のエピソードにあるようにおもわれます.
関連項目:
「正月はすたれてしまうのか?」 (2007-11-22 追記)
キーワード: voiscape, 共体験, 非日常性