この本のなかにはしばしば作曲家のなまえも登場してくるが,序章がこの本のテーマの提示部,終章が再現部であり,そのあいだはながい展開部とかんがえることができる.
こうしてソナタ形式の音楽のように織りあげられた本のなかで,蓄音機や電話などの音声メディアが,現在かんがえられているのとはちがって,歴史的には 1920〜1930 年以前にはもっとさまざまなやくわりをあたえられてきたことが語られる.
それは図式的には線状 (つまり 1 対 1) ないしツリー状 (放送) とはちがって,「複数の声の輻輳的な重なりあい」,あるいはセミラティス状のコミュニケーションだったという.
このような主張はカクテルパーティをおもいださせる.
しかし,こういう結論をみちびくために,ときにはいささか短絡的ないし強引な議論もあるようにみえる.
たとえば,冒頭では永井荷風が隣人によるおおきなラジオの音になやまされたことが書かれている.
それを著者は自然の音と再生された音とを対比させるためにもちだしている.
しかし,実はそれは自然の音か再生された音かということではなくて,現代のピアノ殺人などにつながる近隣騒音とおなじなのではないかともおもえる.
評価: ★★★★☆
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